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History

歴史を知る

浄称寺の始まり

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天正15年(西暦1587年)、京都常楽台の門弟 祐甫法師が現浄称寺の場所にて寺務並びに布教活動を行いました。
このことから祐甫法師を当浄称寺の開基としています。
おそらく当時、秀吉が愛した有馬温泉に深江で捕れた魚やさまざまな物資を運ぶ際、浄称寺の裏手にある森稲荷神社が休憩所とされていたため、そこに集まる人々に対して布教活動を行ったことが浄称寺の始まりとされています。
寛永21年(西暦1644年)2月には、良如上人より【浄稱寺】の寺号と阿弥陀如来立像を下附されたと言われています。

歴史上の出来事と関わり

Involvement

神戸事件

神戸事件とは慶応4年(西暦1868年)、神戸三宮神社前において備前藩(現:岡山県)兵が隊列を横切ったフランス兵を負傷させたことを皮切りに、明治政府初の外交問題に発展した事件です。
この事件をきっかけに日本は攘夷から和親開国へと立場を変えることとなりました。
この時外国の攻撃から日本国を守るため、瀧善三郎正信という一人の備前藩士が責任を背負い処刑されました。この瀧氏の亡骸をお墓に埋め、読経したのは森村の村民と浄称寺第14世住職 釋秀成です。

  • 岡山備前藩は大政奉還直後、徳川家親藩の尼崎藩の反抗を牽制するため、朝廷より西宮警護を命令された。
    その途中、神戸外国人居留地予定地を通る際、備前藩隊の列の間を外国人の水兵たちが横切った。
    その行為は当時の日本では即刻切り捨てられても文句の言いようがない無礼な行いとされ、処罰の対象であった。
    最初その外国人を止めたのだが、言葉が通じないからか、強引に横切ったため、隊の長である瀧が槍で制止し、水兵を傷つけた。
    その後 水兵たちが家に戻って拳銃を取り出したのを見て、銃撃戦が始まった。
    外国人相手と言うこともあり、早々に備前藩隊は切り上げたが、神戸開港に合わせてきていた諸外国の陸戦部隊が外国人や居留地の保護の名のもと、神戸の中心部を占拠してしまった。そこで慌てた新政府は日本国の正当な政府は天皇親政のわたしたち政府であることを外国の外交団に宣言し、新政府は欧米中心思想の「万国公法」を遵守することを伝えたのである。
    なぜ慌てたのか…。
    それは主権があやふやな国、また「万国公法」を守らない国は国家として交渉相手にならない国(野蛮国)とみなされ、それは欧米各国では植民地化する正当な理由とされていたからであった。
    ここで朝廷は今までの攘夷(外国人を追い払う考え)から、一瞬にして和親開国に立場を変えたのである。
    新政府を認めた外国外交団が要求したのは「万国公法」の遵守(日本国が責任を持って外国人の保護する)と事件の責任者の処刑であった。
    その事件の責任を一身に引き受けたのが瀧善三郎正信であった。
    本来ならば日本国において瀧の取った行動は幼き時からの正しい行動であるので、少しも責められるところは無く、それよりも、もし無礼者を排除しなければ逆に処罰対象になってしまう行動であった。
    また 攘夷論をとなえていた朝廷が政権を取り、岡山藩はその朝廷側にたったわけである。理不尽さはこの上なかった。
    しかし、日本存亡の危機になり得る事件の重大さや藩主からのお言葉によって、瀧は責任をすべてかぶったのである。
    処刑当日、外国人検分のもと瀧自ら罪人と名乗り、他の者には責任はなく、私が責任者であることを宣言し、外国人たちの目の前で古式に乗っ取って(見せかけでは無く、本当の短刀を使って)切腹、そして弟子の介錯を受けたのである。
    国のため、主君のために自らの手で自らの処刑を実行する切腹の脅威は、外国人たちに大きな衝撃を与え、日本とそこに住む日本人を侮れないとするに十分であった。
    この神戸事件は この瀧善三郎正信の死によって一気に解決したのであった。
    残念ながら瀧氏は当時はやはり犯罪者として扱われ、日本の外交史に肯定的に表舞台に出始めたのは、ずいぶん後のことであった。

    ▼より詳しい内容を知りたい方はこちら▼
    神戸事件を考える

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